「譲る」ことは「言いたいことを我慢すること」ではない

「譲る」=「優しい」?

子ども現場において、子ども同士の「譲る」という行為はどんなことをさすだろうか。

例1
年下と年上の子どもがテレビの順番で揉めそうになって、年上の子が「いいよ、先見ていいよ」と順番を譲る
例2
買い物に行ったとき、買いたいおもちゃがあって、一つしかない。そんな時、偶然同じぐらいの年齢の子が同じようにそのおもちゃを手に取ろうとしていて、お互いに躊躇して、「どうぞ」と譲る

といった次第だろうか。

このような行為を見て、「相手の子に優しいね」「思いやりを持てて偉いね」なんてことを筆者はこれまで思っていた。

でも、ある時譲った子どもの表情を見てみると、少し悔しそうな顔をしていた。

これをみて、「この子は譲ることが辛かったのを言わなかったんだ」と思い、

同時に「優しいって部分でその子を評価するだけでなく、この子なりに我慢をさせてしまっている」ことをくみ取って関わる必要性を感じた。


「譲る」と「自己主張」を共立するためにできること

「譲る」という行為を私たちは物事を円滑に進める上でよい行いと思いがちだが、それを美化しすぎてないだろうか。

特に、こと子どもに対しては本来の気持ちを閉じ込めて譲る行為を支援者が無意識に強制していないか、と考える。

そこで、「言いたいこと」=「自己主張」をどれだけ支援者が認めることが必要である。

ここでいう「自己主張」と言うのは、「譲ることをやめる」ということではなく、「自分はこう思っている」ということであり、

具体的には子どもが譲ると同時に「もしこうしてほしいことがあったら言ってもいいんだよ」というような、自己主張を肯定する声掛けがあってよいと考える。

つまり、「自分はちょっとほしかったんだけれど、譲るよ」と言った具合に、自分の思いも共に伝えるという点だろう。

そうすることで、「譲る」という行為が悔しさや辛さから解放され、その子にとって心から納得しやすいものになると考える。


自己主張はいつでも受け止めることに意味はある

これは、その時でなくても、支援者側が後から気持ちを受け取ることでも回収可能と考える。

後々「あの時あれ欲しかったのに・・・」と言って「さっき譲ったんだから後々言わない!」なんてこと、ないだろうか。

ここで、子どもの自己主張を私たちは否定せず、譲った気持ちを労い、回復させる。

「欲しかったんだ。(共感)さっき譲ってくれたからあの子喜んでたね。(行動の評価)~だったら売ってるかな?行ってみる?(代替案の提示、認知ずらし)」

といった具合に、その後であってもその子の「自己主張」を受け止める姿勢からはじめる。


「譲る」という行為は対人関係において必要な行為でもある。だからこそ、より慎重に考え、支援者が押し付けてやしないかと、私は思うのです。

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こご

こご

児童福祉施設職員 子どもの心理養育について日々発信しています。クマノミ生活は1年以上。