感情道しるべ論

 

感情を出せない社会

私は、虐待を受けた子どもと関わる機会がたくさんあります。その中で感じることは、「感情の表出が下手な子どもが多い」という事実があることです。

感情って言うと、「イライラする、悲しい、うれしい・・・」といったもの。

え?下手だから何か問題あるの?・・・いいえ、とってもその子にとって生きにくい環境になってしまいます。

例えば、「うれしい」等の表現であっても、言葉にできないというところで違和感が生じます。

さらに「イライラする」等であると、それは「どうしたらよいかわからないもの」に代わり、「この気持ちをなくしたい」となり、最後には「暴言、暴力」となるのです。

私はそういった事象の原因の一つは「近くの大人が適切な感情表現を教える機会がなかったから」であると考えています。

感情は大人が教える?子ども同士で知っていく?

ある人は、
「子ども同士で遊ばせたら仲良くなる ケンカをする中で人間関係を知る」 という人がいますが、私はとても危険な考えであると思います。

なぜなら、それは子どもを先生代わりにしているだけです。

基礎となる部分に愛着関係があり、そこが最初の人間関係構築の場所となるのです。

まず最初に安全に感情学習、対人関係スキルを教える存在は、他でもない近くにいる大人となります。

私は、大人こそ「こういうことは怒る、こういうことはおもしろい」等と言った表現を大人が行うモデル的役割を担う必要があると考えます。

ここで批難をうけるのは、「怒りをぶつけたら、子どもは怯えるじゃないか!」ということ。

そういう人は、「怒りとは威圧的に感情的なものに伝えるものだ」と捉えているのではないでしょうか?そうでは決してないことを私は提唱したい

怒りの表現の仕方を知らない故に学び教える社会が必要

私は怒りの伝え方を間違えなければ、大人こそ子どもにも伝える必要があると考えます。

怒りのコントロールをできない子どもは、その学びが不十分である子どもが多い。

モデルとして、大人が怒りの伝え方を子どもに教え、子どもは対人交流の仕方を実践する。

しかし、一体どのように感情の学習をしたらよいでしょうか。 一緒に考えましょう。

大人が感情を導くモデル的役割を担う方法

大きく分けて二つのやり方があると考えます。

①子どもの感情を代弁する方法(感情のラベリング)

②大人の感情を伝えて覚える方法(感情の観測的理解)

いったい、どういったものか?

感情のモデル的役割(感情のラベリング)

例えば、こういう時

子ども
「先生!砂遊びで泥団子ができたよ!」
表情は穏やかで、こちらの言動に興味をしめしている
支援者
「そうか。それは嬉しかったね」
感情のラベリングをする
子ども
「うん!嬉しい!」
子どもは元いた場所に戻っていく

ここで子どもが求めているものは「自らの経験を他者と共有し、一緒に分かち合う」ということです。(こういったことは「間主観性」と言った言葉として語られることが多い。)

その中で、「嬉しい」という言葉を伝える。

こうすることによって、「泥団子ができた」という結果は「嬉しい」という感情を生むのだとインプットされ、感情を理解します。

しかし、これにも注意点があります。「おそらくそんな気持ちだろう」という予想でしか過ぎないため、「絶対そうだ!」ときめつけないことです。

あくまでそれは支援者が想像した気持ちであり、その子どもの気持ちの全てを理解できるわけではないからです。

つまりこれは最初の導きであり、子どもが少しずつ自分で考えるように配慮する必要があります。

次に、他者の感情から自分の感情の伝え方を知る例です。これは特に怒りのコントロールで使われることを私は特に重要視しています。

感情のモデル的役割(感情の観測的理解)

例えば、こういう時

A君がB君がずっと先生を独り占めしていてイライラし、B君を殴ってしまった。

A君としては先生にかまってもらいたかったが、うまく表現ができなかった。

先生はA君のことも勿論関わっているが、A君はより関わってほしかったという。

先生は「A君の気持ちを受け止めつつ、B君を殴るという出し方ではなく安全な感情をする必要がある」ということを伝えたい

支援者
A君、イライラした気持ちをわかったし、君が関わってほしい気持ちもわかった。ただ、それでもしてはいけないことはある
子ども
「でも、あいつに腹立ったからしゃあないやん!。殴られて仕方ない!」
殴るという行為は間違っていることを理解しているが理解しているが受け入れられない状態
支援者
A君、私は怒っている。その伝え方は間違っているとわかっているはず。「腹が立った」という気持ちは大事にしたらよい。その気持ちは否定しない。
支援者
だけど、それを「行動」に移すことは間違っている。 君がイライラしてそれで暴力をしてしまうことは、君自身の心も傷つけることになるからだ。そうなってほしくないから、私は君に怒りをもって真剣に君に伝えている。違う行動を知っていく必要がある
子ども
「・・・」(悩む)
おそらく彼はこの後も少し悩むと思います。

でも、それでいいんです。ここでのポイントは「真剣に自分のことを考えてくれているからこその感情をぶつけられた」というところです。

「怒り」という気持ちを暴力として用いるのではなく、「君のことを大切に思うからこそ真剣に思うために感じるもの」としての感情表出をする必要があると思います。

そのうえで、「暴力ではなく、こうやって伝えることがよいのか」ということを知るきっかけとなるのです。

ここで大切なのは、「威圧的にならずに、冷静に感情を伝えること」だと思います。

ここができずに感情の学習をしていない大人が多いのでは?

威圧的にならずに、冷静に感情を伝える

つまりこれは、相手に口調を荒げ、ちゃぶ台をひっくり返し、暴力をふるうような前時代的なかかわりではありません。大切なのは

①淡々と

②同じトーンで

③相手の理解できる言語レベルで

④お願いする

というポイントです。

これらは経験上、必要以上に威圧的にみえるのを防ぐ効果があると思います。これ以上レベルを下げると、逆に真剣に伝わる度合いが少なくなると感じます。

また、感情と言うものをコントロールする上でそれまでに深呼吸や、動作法たる自分にとって落ち着く行動をとることも大切でしょう。

思うこと

「怒り」を表現することを非常に恐れる社会になったな と感じます。

それは、社会の目が気になったり、怒り等の感情の表現を自由にできなくなったからなのかな、と感じます。

その結果、社会全体で守りあう環境ができたとは思います。

でも、怒ることって、誰だって感じます。我慢しなければならないのか?

怒りの原因は「納得できないことがあり、それを改善したい」ということが主だと思います。

その伝え方を知らないからこそ、大人のほうがまずその伝え方を学ぶ必要があるのです。

大人と言うだけで、子どもからはとても威圧的な存在です。

自分の2倍ほどある人間がしゃべるということは、とても怖いもの。

子ども目線に立つことをもし考えるのであれば、一度誰かに椅子の上に立ってもらって、自分は地面でそれを見上げる、といったことをしてみてください。

それが、子どもの目線です。

補足 その怒り方は誰の真似?

中学生の子どもが、小学生の子どもに「なにしてる!やめろ!」と言う。

それを見た支援者が「そんないいかたやめろ!」と言う

またそれを見た上司が「そんないいかたで言うこと聞くと思うか!」と言う

一体、子どもは誰の真似をしてるんでしょうか?

そう、それはまぎれもない近くにいる大人です。 私たちは、子どもたちを見ているようで、いつも見られているし、真似されているのです。 子どもにとってモデルとして私たちは存在出来ているでしょうか?

私たち支援者は、そうやって人とうまく過ごすための関わりを導くことが求められるのではと思います。

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こご

こご

児童福祉施設職員 子どもの心理養育について日々発信しています。クマノミ生活は1年以上。